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第六話 覚書

Author: 春野ケイ
last update publish date: 2026-10-31 18:05:10

その日の夜、私は便箋を一枚持って居間に降りた。

「覚書です」

久世は座卓で、テレビのニュースを見ながらいちごのへたを取っていた。私が差し出した紙を、手を拭いてから受け取る。

第二条に関する覚書

一 平日朝の家事(ゴミ出し、風呂掃除)は、当番にかかわらず甲が行う。

二 夜間および休日の家事(共用部分の掃除、共用タオルの洗濯)は、当番にかかわらず乙が行う。

三 前二項に定める家事を行った場合、附則は適用しない。

「当番制、やめるのか」

「やめない。分け方を変えるだけ。どうせ朝は久世くんのほうが早いんだから、朝の家事は朝の人がやればいい」

「三項は」

「これがないと、久世くんが毎週罰金を払うことになるでしょう」

久世は便箋を持ったまま、少し黙った。それから、座卓の端に転がっていたボールペンで、甲の欄に名前を書いた。

「最初から、こうすればよかったな」

「それは、最初に言ってくれればよかったの」

「……そうだな」

珍しく素直だった。拍子抜けして、私は乙の欄に名前を書くのを一拍遅らせた。

久世が、へたを取り終えたいちごの皿をこちらへ押した。

「食う?」

第九条、と言いかけて、やめた。いちごは食事ではない。たぶん。

ひとつつまむと、冷たくて、少し酸っぱかった。

本当は、聞きたいことがあった。

あの付箋の日付。入社した年の秋。どうして、あのころから私に質問を回しはじめたのか。どうして、それまでは一度も話しかけてこなかったのか。

口を開きかけて、閉じた。

第十条。甲乙は、互いの過去に干渉しない。

自分で書いた条文だった。踏みこまれたくないことがあるから、書いた。元彼のことも、中野の暗い部屋で過ごした六年のことも、この人には知られたくなかった。

だったら、私も聞いてはいけない。

「……おいしい」

それだけ言って、もうひとついちごをつまんだ。久世は「そうか」と言って、テレビに目を戻した。

*

月曜日、社内便で営業部から書類が回ってきた。

新築マンションの販売委託契約書。いつものように、余白に赤字の質問が並んでいる。三つ。どれも、言われてみれば確認しておくべきところだった。

最後の質問の下に、一行だけ、赤字ではない字があった。黒のボールペンで、少し小さく。

――いつも助かってる。

名前はなかった。なくても、誰の字かはわかる。日曜の夜、覚書の甲の欄に書かれたのと同じ字だった。

私はとっさに、その一行を手のひらで隠した。誰に見られるわけでもないのに。

顔を上げると、フロアの反対側で、久世が電話をしていた。いつものように、受話器を肩に挟んで、後輩の資料に付箋を貼っている。こちらを見る気配は、まるでなかった。

手のひらの下で、紙が少しだけ温かくなっていく気がした。

*

「紗月、なんかいいことあった?」

昼休みの社食で、茉莉が箸を止めた。今日は唐揚げ定食だった。

「ない」

「嘘。さっきから、ちょっと口がゆるんでる」

「ゆるんでない」

「そういえば引っ越し先、結局どこにしたの。ばたばたしてて、ちゃんと聞いてなかった」

箸の先で、唐揚げの衣がほろりと崩れた。

「……知り合いの紹介で、シェアハウスみたいなところ」

嘘ではない。全部ではないだけだ。第四条。社内では同居の事実を秘匿する。茉莉は総務部で、社内でいちばん顔が広い。そして、声が大きい。

「へえ。どんな人と住んでるの」

「……静かな人」

それも、嘘ではなかった。

*

覚書のとおりに暮らしはじめると、家の中の時間がきれいに二つに分かれた。

朝は久世の時間だった。私が起きるころには、ゴミは出され、風呂は洗われ、縁側のガラス戸が少しだけ開いている。夜は私の時間だった。帰ってから廊下を拭き、タオルを洗い、乾いたものをたたんで棚に戻す。

顔を合わせるのは、その境目の、ほんの短いあいだだけ。朝の台所ですれ違うときと、夜の居間で「おやすみ」を言うとき。

それだけなのに、その短いあいだを待っている自分がいた。

五月が終わって、庭の紫陽花が、いつのまにか薄い青に色づいていた。

六月の最初の水曜日、関東が梅雨入りした。

その夜、寝る前に天気予報のアプリを開くと、翌日の欄に、雷のマークが並んでいた。午後から夜にかけて、大気が不安定。落雷に注意。

私は画面を伏せた。

雷だけは、子どものころから駄目だった。音が鳴る前の、あの白い光が。

スマホが震えた。伏せたまま、手に取る。

『明日、接待で遅くなる。先に寝てて』

先に寝てて。

そんなふうに言われるのは、初めてだった。

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